飛騨地方と着物について

飛騨地方と絹産業の歴史

飛騨地方は着物と深いかかわりがあります。

映画「あゝ野麦峠」で知られているように、飛騨地方の多くの女性達は、長野県の信州を結ぶ野麦峠を越えて、製糸工女となり、絹産業を支えた歴史があります。

 

明治、大正時代の日本の輸出総額は、「絹」(養蚕関連産業)が半分を支えていました。絹は長野県の信州から神奈川へかけて海外へ輸出されていました。 

 

長野県の絹関係の働き手は、明治10年(1877年)に8千人、大正末期に8万人いたとされています。

 

その労働者は飛騨地方、岐阜県、山梨県から集められていたのでした。

 

 

 

 

貧しい農村家族は困窮を極め、女性であっても激しい労働を強いられていました。

その為、年期奉公として家族から製糸工女として売られていました。

 

製糸工女となった女性たちは三度の食事に初めてありつけ、運動会ではパン食い競争、珠算講習会も行われていました。     

しかし、時代と共に1920年代、大正デモクラシーの結果として、女性たちはストライキを起こしていきました。

 

戦争のたびに生糸の輸出が増加し、長野県が不況にたえきれなくなり、1930年代の輸出が完全にストップしました。

 

女性たちの真の解放は昭和20年(1945年)、第二次大戦の敗北にいたるまでありえなかったといいます。

※引用文献・写真「飛騨の風土」明治大正図誌8 中央道 筑摩書房